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インタビュー・コラム

大島眞氏(元・新響電機工業株式会社技術者/大島電機代表)インタビュー vol.3

―― しかしお話を聞いていると、本当に大島さんは仕事一筋だったんですね...

大島 そうですね。

―― 家庭はかえりみましたか?

大島 全然かえりみませんでした。

―― 大島さんは恋愛結婚だったんですか?

大島 いえ、僕がもらいに行ったんです。妻の弟と仕事で一緒になって、家に遊びに行ったんです。兄妹が4人いましたが、そいつの2番目の姉さんをくれって言ってもらったんです。

―― それは好きになったということですか?

大島 まあ、縁ですね。分かんない。

―― ご結婚はいつでしたか。

大島 昭和27年です。

―― もう新響で働いていた頃ですね。

大島 当時は給料が安くてね。月給で1,000円ですよ。結婚する前は250円。結婚したから1,000円になったんです。当時、家を20万円で買えたんですが、それから借金を返し終わるまで給料を全部家に入れなかったんです。それで2年間で返し終わりました。あとは内職で食っていたんです。実は、結婚当時は十何万の貯金があったのですが、人に騙されてお金を取られてしまいまして。それで女房に頭が上がらなかったんです。
僕は自暴自棄になってしまってお金なんか持っていても意味がないと思っていたところに、たまたま新響の社長から「お前、20万円で家を買わないか」と言われたんです。給料250円の頃の20万円はでかいですよ。それに、所帯を持ったということで給料が1,000円に上がりまして、家があれば困らないだろうと考えて無理して買いました。内職もしているからなんとかなると思ったんですが、厳しかったですね。夫婦で結核になっちゃいました。

―― 結核!?

大島 食うものも節約していて、ろくなものを食ってなかったせいです。僕は1クールといって半年で治ったんだけど、女房は2年くらいかかりました。4クール。当時はすでにストマイ(ストレプトマイシン)という薬がありましたから、治ったはずなんだけど、完治はしていなかったのかもしれない。結局女房は肺がんで亡くなっていますから。だからもしかしたら、俺が殺しちゃったのかなあ、って思うこともあります。

―― いやいや、そんなことは。治療の間は入院されていたんですか?

大島 自宅療養でした。昭和29年に子供が生まれて、給料が1,200円になりましたが、厳しいものでした。だからみなさんやってましたよ、内職を。会社の給料だけだとやっていけないですから。
新響が売っているR3とR5というモノラルのアンプがあるんですが、これは私が内職で作ったものなんです。家で組んで、会社に納めて手間賃をもらって、会社はそれを売っていたんです。だから内職も公然だったんです。

―― 戦後も大変な時期が続いたのですね。大島さんは仕事以外の楽しみはあったんですか。酒とかタバコとか。

大島 酒は一切やらないです。タバコは42歳でやめました、17歳から吸ってましたけど。
学校で勤労動員というのがあって、造船所に行っていたんですね。勤労動員では囚人と一緒に働くんです。囚人とは作業は別になっているんだけど、現場だから話をする機会はあるんですね。それで彼らが船の甲板の材料で下駄を作ってくれて、それを「光」という煙草1個と交換するんです。そんなことをしているうちに煙草をいつも持っているようになって、皆で遊び半分で船のハッチに隠れてパカパカ吸うようになりました。そうしたら、校長先生やら視察官やら視察で見つかってしまって、退学という話になったんです。見つかった現場には僕はいなかったんですが、19名が兵隊に行くということで退学を免除してもらったんです。僕はいなかったけど仲間だから、ということでそれを受けて兵隊になりました。そうそう、だから純粋な気持ちではなかったんです、きっかけは。不純な動機で軍隊に行ったんです。

―― 昭和の時代が終わり、新響電機は一度倒産しますよね。

大島 倒産...というか、実は最後まで黒字だったんです。しかし当時の社長が解任されたのをきっかけに、会社を処分することになりました。
私はそのとき役員だったから、社長とともに即座にクビになったんです。私と鈴木司郎さんという技術者はどうしようかとブラブラしていたら、後になって新響電機から、嘱託としてしばらく仕事をしてくれないかと呼びに来たんです。会社を解散して財産を処分しようということになり、土地を売却して映写機は別会社を作って継続していくことになりました。それで秀重氏の養子である喜久雄さんがそれを受けて光映社(注1)を作ったのが平成2年でした。

――  そこで新響電機工業株式会社という会社はなくなったんですね。

大島 はい。この時僕は喜久雄さんから光映社に来てほしいと言われたんですが、そのときハイファックスの仕事が忙しかったので...。

―― まだ内職していたんですか(笑)。

大島 そう。内職の方を本職にしようと思って喜久雄さんの誘いを一度は断ったんです。

―― でも結局は戻られたんですね。

大島 電気の仕事をやれる人が誰もいなかったので、僕を頼ってきたんです。それに、だんだん不景気になってくるにつれてハイファックスの仕事がなくなってきました。そうしたら一番先に仕事を切られて失業してしまいましたので、光映社に戻ろうかと。だけど会社には所属せず、下請けとしてやっていたんです。鈴木司郎さんは社員だったけど、私は仕事のあるときだけやらせてもらっていました。

―― その光映社も今はなくなってしまいましたね。

大島 喜久雄さんが亡くなって、継ぐ人もいないから廃業届を出したんです。

―― 壮大な歴史と、ご苦労があったんですね。

大島 私はいい加減でした、本当に。新響という会社そのものもいい加減でしたけど。僕より後から入ってきた人ばっかりでしたが、けっこうお互いにワガママを言っていました。私と営業の柴田三夫はしょっちゅう喧嘩していました。

―― 「シネマ100年技術物語」(注2)に出てくる柴田さんですね。今はどうされているのですか?

大島 亡くなられましたね。

現在も全国のホールや野外上映会などで、新響のポータブル映写機は活躍している

―― 新響の映写機の型はいくつくらいあるのですか?

大島 最初はG型で、GR、GH、SH(注3)ですね。

―― GXは?

大島 GXはキセノンですね。GHがカーボンかな。SHという型だけミシン部が違うんです。裏が密閉型になっていて、オイルが循環するようになっています。それでミシン部の上で送り出して下で巻き取るタイプです。他の、Gとつく型はミシン部が一緒です。

―― 一方、トキワもポータブル映写機を作っていましたが、トキワの映写機と違う点はなんだったんですか。

大島 あの機械は、日本電機光学のときに石田さんとカスガさんという若い設計士の方たちが、新型を作ろうとしていたんです。それが完成したかは分からないんですが、日本電機光学が倒産してから、その設計図をもとに石田さんがトキワの移動映写機を作ったんです。カスガさんは倒産後、映写機の設計の仕事はやめて他の業種へ行ってしまいましたが。新響の映写機は社外からやってきた岩崎が設計しましたが、石田さんは自分で設計したものを自分の会社で作ったんですね。

―― トキワの映写機の原点は日本電機光学なんですね。

大島 違いといえば、新響の方が軽かったんです。それと決定的な違いは、石田さんのところはバーチカルシャフト(注4)だったことです。新響はオールギア(注5)で、バーチカルシャフトを使っていなかったんです。バーチカルシャフトはローヤルのL型とか、昔の劇場の映写機にはよく使われていました。ギアだけでやっていると構造が複雑にはなるんですけど。

―― 新響の映写機がトキワより優れていると思われる点はあリますか。

大島 優劣はどうかな...トキワは円板シャッターといって、ディスク型のシャッターで切り欠きがあるタイプでした。新響は、最初はロータリーシャッター(シリンドリカルシャッター、円筒型)というタイプで、そのあとコニカルシャッター(円錐形、すり鉢型)に代わったんだけど。

―― トキワさんとのお付き合いはあったんですか?

大島 戦後、私が日本電機光学にいた時代があったので、付き合いはありました。1年しかいませんでしたが、石田さんも含めて家族的なつながりがありました。社宅がありましたが、今でも当時の場所に住んでいる人がいます。

―― 東武練馬にですか?

大島 はい。事務をやってた女の人ですが、もう100歳になる方です。石田さんともその頃からの知り合いですね。

―― 濃密な1年だったんですね。

大島 たった1年でしたけれど、そうですね。ただ、トキワにはしばらくは出入りしていませんでした。ずっと後の、光映社になってから再び付き合いが始まりました。

―― トキワへ行く目的はなんだったんですか。

大島 モーターの革ベルトを買ったり、巻き返し機とか、リールとか。ワイヤーリールはうちでも作ってましたが。

―― トキワは備品も作っていたんですか。

大島 巻き返し機は作っていました。ジーベックス(注6)や、他にもあちこちに納めていましたね。日本電子(注7)も使っていましたから。

―― 数年前に池袋に移転した時に、そういったものも処分されてしまったのですね。

大島 4tトラックで二十何杯捨てたと言っていましたからね。かろうじて僕はその前に測定器などを譲り受けることができましたが。それは池上さんが僕用に用意してくれていたんです。

―― 日本電機光学時代に培った信頼関係が未だに続いていたということですね。

大島 そうですね、昔からの知り合いだからということで便宜を図ってくれました。機械も部品もうちとは互換性もなかったですから、電気関係のものをもらいました。

―― 他の映写機メーカーとの交流はあったんですか?

大島 「睦(むつみ)会」というのがあって、ジーベックスやビクター、他にもLEDを作っていた大野技研、ミラーを作っていた国際商事など大勢参加していた会合がありました。僕は参加していませんでしたが、皆で旅行をしたりしていたそうです。

―― 大島さんがこれまでを振り返って、一番思い出深い出来事は何ですか?

大島 新響電機時代、カナダのIMAXという会社の映写機の取り付けをやっていたんです。赤坂にあるサンライズという会社からの依頼でした。機械がカナダから日本に来て、その取り付けを引き受けていました。水回りとか機械回りとかも含めて、稼働するまでのいっさいがっさいを担当していました。

―― 当時のIMAXは70mmですよね。

大島 70mm横映しの、15パーフォレーション(注8)。フィルムを送るのはローリングウェーブというシステムでドラムになっていました。光源からの光を一度ミラーで受けて反射させる形です。ミラーにしている理由は、フィルムを送るローリングウェーブが大きくて、ランプハウスを(投影レンズに対してまっすぐに)置けなかったので、横にランプハウスを置いて光を屈折させたんです。ミラーは2枚あって、光をコンデンサーレンズで集光させてフィルムに当てるんですよ。それで投影レンズへ行くという構造でした。また、立体映像はソリドーという機械です。ソリドーというのはエレベーターになっているものです。

―― 大宮のさいたま宇宙劇場にあるオムニマックスシステムですね。

大島 そうです。大宮の取り付けの際はドームで暑くてね。それで頭が禿げちゃったんです。

―― (笑)。

大島 いや本当に。ボソボソ抜けるんですよ。シャツなんて脱いで絞ったら汗がジューッと。当時パビリオンが全国にありまして、僕はその頃会社にほとんどいなかったです。まず図面がきます。それを見て必要な電気部品をあげて注文するところからやっていました。楽しかったですね。最後はスペインまで取り付けに行きました。

―― スペインですか。

大島 セビリアという町に富士通のパビリオンができまして、そこへ取り付けに行きました。2週間。楽しかった、半分遊びで。ただワークビザが2週間しかないから、中途半端に仕事が残ってしまって、あとは現地の方に任せて帰国してしまいましたが。大型映像の設置が新響電機時代にいて一番やりがいがありました。1台1台違うんですから。
最初のきっかけは大阪万博で芙蓉グループの銀行がパビリオンを出したことです。建物が幌馬車風でしてね。70mmの映写機を25メートルのマルチスクリーンの前に置きましたが、その周りにいろんな画が映るんです。新響は曼荼羅映写機といって壁に二十数台のスライドを組んで投影しました。スライドが明るすぎて、正面の画が映らないから暗くしろって言われたりしましたね。それがきっかけで、笹川良一(注9)が作った「船の科学館」の敷地にIMAXの1号機を取り付けました。
その後ずっとIMAXの仕事をやらせてもらっていたんですけれど、所沢の航空博物館にIMAXを設置する際に、新響のチーフとIMAXの連中が喧嘩してしまったんです。それで仕事がこなくなって、ビクターがその後全部引き受けていたみたいです。
...なんだか長くなりましたが、私のお話はこんなところでしょうか。

―― どうもありがとうございました。大島さんご自身の歴史もお聞きできてよかったです。新響は戦前からの長い歴史のなかで紆余曲折があったようですが、会社が無くなったいまでも新響の映写機は全国で使われていますね。それはやはり性能的に優れているということですよね。

大島 まあ優れていたとは思うんですが、つまりは機械そのものがシンプルだったから誰でもいじれるというところが良かったんじゃないかと思います。

(取材日:2015年12月3日 聞き手・構成・撮影:神田麻美)

注1:平成2年創立。平成17年に喜久雄氏が死去したことにより廃業。
注2:口石弘敬著(1995)『シネマ100年技術物語』鈴木健一監修,社団法人日本映画機械工業会
注3:光源が電球なのがGR-L型、アークがGR-A型、キセノンランプがGRX、GX。その他、セミポータブルのSR型、常設館用のSP、SH型、幻灯機などもあった(『旅する映写機』パンフレット内、永吉洋介氏による映写機解説より)。
注4:駆動部の主軸が縦のシャフトで、シャッター、フレーミング、インターミッテント機構の各ギアがかみ合っている。トキワの他に、ローヤルやフジセントラルの映写機もこのタイプ。
注5:全ての機構がギアでかみ合って駆動するタイプ。新響の他に、ニュースター、インターナショナル(野村工業)の映写機もこのタイプ。
注6:日本のウシオ電機の子会社で1966年創業。キセノンランプを水平式に改良し販売したことを機に映画産業に参入。輸入映写機シネメカニカや、OEMで製造した常盤精機製映写機を販売しサポートを行ってきた。ウシオ電機はアメリカの映写機メーカー「クリスティ」を買収しており、日本ではジーベックスが代理店となっている。
注7:日本電子工業株式会社。高密工業が倒産後、1965年に高密出身の高橋秀雄氏が立ち上げた。2012年に倒産。
注8:通常の35mm映画フィルムは4つのパーフォレーション(送り穴)に対して1フレームで、IMAXは15パーフォレーションに対して1フレーム。また35mmほか多くの映画フィルムは、フィルム幅に映像の水平方向が収まり、フィルムがアパーチュアに対して垂直方向(縦)に送られていくのに対し、IMAXをはじめ一部の大型映像は、フィルム幅に映像の天地が収まり、アパーチュアに対し水平方向(横)にフィルムが送られていく。後者の方が1フレームの面積が大きい分、スクリーン上でより高精細な画質を得られる。
注9:ささかわ りょういち、1899-1995/日本の政治運動家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会《現公益財団法人日本財団》会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。

神田麻美Mami Kanda

映写技師。東京国立近代美術館フィルムセンター客員研究員。
株式会社IMAGICAで映写経験を積み、退職後にフリーランスの映写技師となる。映写技師の聞き書きを行なう活動「かきおとしプロジェクト」も進行中。

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