シネマガジン

インタビュー・コラム

大島眞氏(元・新響電機工業株式会社技術者/大島電機代表)インタビュー vol.1

「Fシネマップ」のwebサイトが2016年2月8日にオープンしました。
この「シネマガジン」では、映画フィルムや映写機、映写技術などに関わるさまざまな方たちのお話を伺い、映画フィルムの上映環境を保持していくための知恵やヒントを提供できる場となることを願っています。
第1回目の今回は、映写機修理・電気技術者の大島眞さんにお話を伺いました。

大島 眞Makoto Oshima

1927年(昭和2年)東京生まれ。映写機修理・電気技術者。
都立深川工業学校電気科卒業。戦時中は海軍で航空機の整備などを行ない、復員後、日本電機光学株式会社を経て、昭和21年に新響製作所へ入社(平成2年廃業)。その後は光映社(平成17年廃業)を経て、現在は大島電気代表として今なお全国で使用されている新響製映写機の修理を行なっている。

※漢字表記不明の氏名については、カタカナで表記してあります。

―― お生まれの年と場所を教えてください。

大島 昭和2年、10月3日生まれ。場所は台東区小島2-○○です。昔は2-××だったんです。

―― (笑)変わるものなんですね。

大島 はい。今は弟がここに住んでます。1回火事で焼けましたから。隣のメッキ屋さんから火が出て、もらい火で焼けちゃいまいした。

―― 小島って浅草の方でしたっけ。

大島 大江戸線の駅でいうと新御徒町ですね。降りてすぐです。

―― どういう子ども時代でしたか。

大島 小島小学校というところを出て、昭和15年に都立深川工業学校(注1)の電気科に入学しました。当時の中学校は5年制でしたから、今でいう高校ですね。昔は高校がありませんでしたから。
中学が甲種と乙種(注2)とあり、甲種が5年制で、乙種が3年制でした。うちの学校は機械科と電気科しかなかったんですが。自分はもともと実家が電気屋だったから、電気科を受けました。

―― 甲種と乙種で取れる資格が違かったのですか?

大島 高等小学校(注3)というのがありまして、それは2年制なんです。乙種の中学は3年制で、甲種の中学が5年制です。当時の普通中学は5年制ですけどね。それで自分は甲種で昭和20年の卒業だったんですけど、昭和19年の10月に志願して海軍に合格しちゃったわけです。それで「第七期海軍整備術乙種予備練習生」になり、籍は横須賀で「藤沢海軍航空隊」という隊に入隊しました。学校は3月に卒業だったのですが、1月15日に入隊するので仮卒業しました。ところが3月10日の空襲で学校が焼けてしまって。僕の卒業証書を持っている奴がいたんですけど、証書を持ったまま戦災で何処かへ行ってしまって、あっち行ったりこっち行ったりしているうちに無くしたらしいんです。だから戦後に卒業証明書を学校でもらいましたが。
終戦後は9月2日に除隊しました。実際は8月の終戦の時に除隊扱いになっているのですが、それから厚木航空隊、今の厚木飛行場がある場所に配属されまして、滑走路の穴埋め・整備をさせられました。

―― では終戦後、半月くらい厚木にいらしたんですね。

大島 はい。その後12月までぶらぶらしてましたが、翌年の1月10日頃から「日本電機光学株式会社」という、東武練馬にある会社に入りました。

―― なぜその会社に入ることになったのですか?

大島 親父が昔、映写機を修理する仕事をしてたんです。ローヤル(注4)の下請けとか。その関係の知り合いに、当時「新響電機工業株式会社」にいた佐々木邦夫さんという専務取締役の方がいて、「日本電機光学株式会社」の役員をされていたんです。その人の口利きで入りました。
戦前、映写機を作っている会社10社ほどが軍の合同企業としてひとつにまとめられてしまって、監督工場になっていろいろな配給をもらっていました。その合併した会社が、「日本電機光学株式会社」です。デブライの映写機(注5)を作って、それを中国などにいる人たちのために結成された慰問団として、映写機を持参して移動映写をしていたそうです。そこで日本の映画をかけたりしていたわけです。

―― お父様は今の大島さんと同じようなお仕事をされていたんですね。

大島 親父の話をすると長いんですけど、福島出身で中学を出て日本銀行の福島支店に入ったんです。20歳で召集があって盛岡の騎兵連隊に入隊して、普通は3年なんですが成績が良いとかで2年で除隊して、東京に出てきました。その後、現在の工学院大学(旧:工手学校)に夜学で入学しました。昼間は逓信省(注6)に入って、卒業するまでいたそうです。苦学ですよね。卒業後は何をしていたか分からないけど、スピーカーをドイツから輸入して売ってたみたいです。だから実家にそういう残骸がいっぱいありました。当時はいい加減でしたからね、そんなことをしていたようです。映写機は、大塚にあった高密工業、今で言うローヤルとか、あと日野工場(注7)というやはり映写機を作っていた会社があったのですが、そこで部品を作らせてもらっていたみたいです。そんなことをしているうちに映画館のメンテナンスをするようになり、映画が終わってから、夜中に歩いて回ってたみたいです。親父の話では、警官にしょっちゅう捕まっていたようです。夜中にトランクを持って歩きまわっているから怪しい、と言われて、止められたことは何度もあると言ってました。トランクを開けて説明してやっと分かってもらったみたいですけど。当時はローラー(注8)という会社もあって、そこの下請けもやっていたそうです。ローラーは大阪の会社ですが、飯倉一丁目(現在の麻布台)に支店があり、自分はそこによくお使いに行きました。父は本当にいろいろなことをやっていたようで、P.C.Lという東宝の前身の会社で録音技師もしていたこともあり、そこで(のちに大島さんが新響電機や、日本電機光学株式会社でお世話になる)佐々木さんと知り合ったそうです。その縁で親父が自宅の近くに佐々木さんを下宿させて、飯はうちで食わせて面倒を見ていたのですが、後にうちのお袋の妹と結婚し、大阪へ行って、大阪の「奥商会」という会社に入社しました。奥商会は当時16mm映写機などの輸入商社でしたが、そこで新響電機の先代の社長の打田秀重さんに出会ったそうです。当時の打田さんは奥商会でセールスマンをしていたのですが、佐々木さんは打田さんと組んで、「新響電機工業株式会社」を大阪で起ちあげました。結構景気が良かったようで、後に東京に進出し、神田材木町(現:岩本町)に本社工場を作ってずっと経営していました。その後、先ほども言った「日本電機光学株式会社」という合同企業になったわけです。合同企業の中にはオールキネマ(注9)とか中村製作所とか新響電機とか、10社くらいありましたね。

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―― 当時はそんなに映写機メーカーがあったんですね。

大島 はい。その10社が集まってデブライの映写機を作って売りました。軍が買ってくれますからね。戦後になってからは、もともと別の会社の重役ばかりだったので喧嘩別れしてバラバラになりましたけどね。それで日本電機光学に残ったのは佐々木さん一人だけ。僕は復員後、佐々木さんに誘われてそこに1年いました。なぜ1年で辞めたかというと、佐々木さんが退社して独立するからお前も来いと言われたのです。
その頃、日本電機光学にはのちに常盤(ときわ)精機(注10)の社長になる石田さんや、池上さんのお父さんがいました。池上さんのお父さんは僕が辞めた後に復員して帰ってきて、日本電機光学に入社したんです。

―― 現在、常盤の社長さんは池上さんですよね。

大島 はい。常盤精機を作ったのは今の社長のお父さんと、石田さんです。

―― 常盤精機の先代社長はご健在なんですね。

大島 そうだと思います。石田さんはもう90歳を過ぎていらっしゃいますが、お元気ですね。もともと常盤精機があった土地(注11)は石田さんの家の庭だったんです。隣が住居になっていて、今もそこにお住まいのはずですが、会社の跡は駐車場になってます。何もないですよ。

―― 以前にお聞きしましたが、石田さんの復員後のエピソードも印象的でした。

大島 そう。石田さんは復員してきて焼け野原になったあの土地に戻ってきたそうです。親の代から持っていた土地だったそうですから。そうしたら、なぜかそこで打田秀重さんのお兄さんが焚き火していたそうなんですよね。それで一緒に焚き火にあたって話をしたのがきっかけで、(弟の打田秀重氏が働いていた)日本電機光学を紹介されて入社されたそうです。打田さんのお兄さんは鋳物屋さんでしたけどね。打田鋳鋼という会社の社長でした。
日本電機光学時代、石田さんは工務課といって設計の方にいたんですよね。僕は電気課の方にいたんですけど。なんだか知らないけどみんなくっついていますね。

―― 血縁関係も含め、いろいろなご縁がおありですね。池上さんの息子さんは現社長ですが、石田さんのご子息も現在経営に関わっていらっしゃるのでしょうか。

大島 いいえ。石田さんはある時点で映写機の会社を止めるつもりだったようですが、池上さんがやると言うので任せたみたいです。石田さんは役員になって、直接の経営からは離れ、家賃を毎月貰っていたそうです。でも映写機の仕事も立ちいかなくなってしまったので、工場は手放して、今は池袋のビルの一室でキセノンランプの販売をしています。中国でキセノンランプを作ってその販売元になっているのですが、ある時期に中国からの留学生の面倒を見たのがきっかけのようです。その留学生はウシオ(注12)さんにも行ったのか、日本で技術を覚えて帰って、中国で会社を作ってキセノンランプを製造しているそうです。だから常盤さんには恩があって、特別な取引ができているという話です(注13)。

―― 大島さんは戦争に行く前は、もともとお父さんの跡を継ごうと思っていたのですか?

大島 まさか自分が親父のあとを継ぐと思わなかった。僕は終戦後、疥癬という皮膚病を治すために福島の温泉に行かせてもらったんですよ。親父とお袋の実家が福島だったので。3か月で治りましたが。

―― 疥癬は戦争と関係していたのですか?

大島 ええ。疥癬というのは軍隊で流行ったというか、ほとんどの兵隊が疥癬だったんじゃないかな、風呂に入らないから。僕は軍隊に8か月いたけど、風呂には5、6回入ったかどうかですよ。

―― 海軍へは自ら志願されたんですよね。

大島 それは中学が軍国主義の学校だったから。だから制服も一番先にカーキ色になりました。それに先輩たちがしょっちゅう勧誘に来ていたんです。

―― 深川工業学校にですか?

大島 そうです。学校の先輩が勧誘にくるわけです。入学した時は60人くらいいましたが、卒業したのが28人。みんな退学したり落第したり。その28人のうち19人が同じ軍隊に行きました。水泳が得意な奴は"ジタン"(注14)と言って潜水艦に乗せられました。その頃にはもう潜水艦なんてありませんでしたけどね。あと"通信"と言って、トツートツーと電気通信を行う奴と、飛行機に乗る奴。僕は"電探(でんたん)"、電波探信儀と言って、飛行機に積むレーダーを操作していました。第七期海軍整備術の軍事施設はこの3つしかなかったんです。海軍に「天山(てんざん)」という飛行機がありました。通常は、特攻の飛行機は1人乗りで操縦席だけなんですが、終戦間際はこの「天山」しかなかったです。これは2人乗りで、1人が操縦、1人が電波探信儀を操作するというものです。本当は3人乗りで通信が乗るのですが、特攻機だからもう通信は必要ないと。だから電波探信儀と操縦士の2人だけが乗って行くのです。

―― 特攻って1人で行くのと2人で行くのがあったんですね。

大島 だって夜は真っ暗ですから。電波探信儀がいないと敵がどこにいるか分からない。

―― 大島さんも特攻機に乗っていたかもしれないんですか。

大島 もちろん。それに乗るための員数ですから。飛行機があれば九州の鹿屋飛行場というところへ行くはずだったけど、飛行機がなかったので藤沢で穴掘りなんかをしていました。

―― 海軍というので船かと思っていました。

大島 今の自衛隊は陸と海と空の3つに分かれていますが、当時は海軍と陸軍しかなくて、それぞれが陸軍航空隊と海軍航空隊を持っていたんです。あと千葉県の銚子のちょっと手前に干潟という場所があって、そこにも海軍の飛行場があったので出張して行っていました。

―― 戦時中に飛行機を作っていた会社は戦後に映写機を作り始めますよね。

大島 中島飛行機がそうですね。友達が就職していましたけど、終戦と同時にクビになりました。ほとんどがそうだったみたいですけど、残った人たちが富士重工(注15)を作ったと聞いてます。

―― では海軍で学んだことは、戦後の仕事に役立ったのでしょうか。

大島 そうですね。一応整備と名が付いてますから、飛行機を直す仕事もしていました。ただ学科の勉強はほとんどありませんでした。そんな余裕は軍隊になかったんですよ。3か月で特別幹部練習生に変わったんです。これが1期です。同じ1期には城山三郎という小説家が、呉にいたみたいです。19年の10月に試験を受けて、20年1月に入隊、新兵としての訓練は3か月で終わり、3月で終わったんです。ただ行き先が決まらなくてしばらく教練をやらされて、5月から特別幹部練習生になりました。

―― 本当に終戦間際だったんですね。終戦を迎えてなかったらどうなってたんでしょう。

大島 どうなっていたのか。先は分からなかったですね。

(vol.2に続く)

注1:昭和21年、現在の東京都立本所工業高等学校と合併。http://www.honjokogyo-h.metro.tokyo.jp/cms/html/entry/5/3.html
注2:甲乙制度は実業学校(農学校、工業学校、商業学校など)で設置されていたが、大正10年頃に廃止されている。その名残か?大島氏によると、尋常小学校卒業後の進学には高等小学校(2年)、中学校(5年制)、実業学校(乙種3年または甲種5年)などの選択肢があった。
注3:明治40年に発布された小学校令の制度。尋常小学校が6年、高等小学校が2年だった。昭和16年国民学校令により国民学校初等科6年、国民学校高等科2年と改称するが、昭和22年の学制改革により現在の学校制度へ。
注4:大正7(1914)年創業の高密工業株式会社の映写機。日本初の国産映写機を作った御国工業(代表:高橋弥惣吉)出身の堀熊三郎が独立して高密工業を立ち上げた。
注5:デブライそのものではなく、デブライをモデルにしたイミテーションを製造していた。デブライはシカゴの会社で、持ち手がついたケースに映写機をコンパクトに収納・持ち運びができる、ポータブル映写機を製造していた。
注6:かつて日本に存在した郵便や通信を管轄する中央官庁。戦時中は逓信省と鉄道省を統合し運輸通信相になるが、戦後再設置される。のちの総務省、日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)がこれにあたる。運輸通信相時代(昭和18年から昭和20年)を除く明治18年から昭和24年まで存在した。
注7:社名不明。
注8:大阪の映写機メーカー「ローラーコムパニー」。映写機ブランド名はローラー。ローヤルが高級機でローラーは普及機として大正から昭和にかけて活躍した。
注9:(有)鈴木映画の前社長・鈴木文夫氏の伯父にあたる永井勇吉氏が代表を務めていた。オールキネマはトーキー映写機の製造で成功していた。
注10:現・株式会社トキワカンパニーhttp://www.tokiwaseiki.co.jp/。昭和26年、石田氏と池上氏が中心となって「常盤精機製作所」を設立。新響とともに、国産ポータブル映写機を製造していた。現在はキセノンランプの販売が中心で映写機の製造は行っていないが、常設機は現在も全国の公共ホールで多く見られる。
注11:会社はときわ台にあったが、現在は池袋に移転している。
注12:キセノンランプのメーカーで世界的なシェアを持つ、ウシオ電機株式会社のこと。http://www.ushio.co.jp/jp/
注13:現在は国産のキセノンランプも取り扱っている
注14:磁気探査の略
注15:戦後、中島飛行機は「富士産業」に改称し、やがて9社に分割した。中島飛行機時代のほとんどの工場が富士重工業(自動車ブランド「スバル」)となったが、いくつかの工場は富士精密工業としてエンジンのほかに映写機やミシンを製造していた。富士精密工業は昭和23年、ドイツAEGの映写機をモデルにした「フジセントラルF1」を製造、その後もいくつかのモデルを作るが、自動車の製造がメインになっていった。昭和29年にプリンス自動車工業(現在の日産)と合併し、やがて映写機の製造を中島飛行機時代からの下請けだった平岡工業へ移管した。さらに平岡工業が倒産したのちは、ビクター・アークス(現JVCケンウッド・アークス)が引き継いだ。中島飛行機と同じく、軍需工場だった「東京航空計器」もドイツのエルネマンをモデルに「ニュースター」という映写機を製造している。当時は戦勝国のアメリカをモデルにしにくかったというエピソードがある(『シネマ100年技術物語』より)。

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