シネマガジン

インタビュー・コラム

大島眞氏(元・新響電機工業株式会社技術者/大島電機代表)インタビュー vol.2

―― 戦後は日本電機光学株式会社に1年勤め、新響製作所に入ったのですよね。

大島 はい。佐々木邦夫さんの自宅で旗揚げしました。

―― その時社員は何人くらいいたのですか?

大島 木下さん、伊藤さん、あと名前が出てこないけど絵描きが1人いましたね。あと社長、鈴木テイイチさん(注1)もいたかな。6人くらいいました。その後目黒に行ったり借家を転々として、昭和25年に打田秀重さんが戦後やっておられた「鈴鹿製作所」と合併しました。鈴鹿というのは三重県の鈴鹿のことです。打田さんの出身地で、それを会社名にしていました。

―― それは日本電機光学を離れてからですか?

大島 そうです。離れてから打田さんは映写機はやってなかったと思うんですけど、電熱器などを作ってデパートなどに卸していました。結構派手にやっていましたね。それから佐々木と一緒になって映写機を作り始めたんです。

―― 日本電機光学はその後どうなったんでしょうか。

大島 私が辞めた後、倒産しました。昭和25年までやってたのかな。というのは、その年に日本電機光学の社長だった泉巌(いずみいわお)と副社長の鈴木利雄という人を新響電機に招いたんです。

―― 昭和21年に新響製作所として再出発し、昭和25年に新響電機工業株式会社になったんですね。

大島 はい。もともと戦前はこの社名だったので、再興したわけです。僕は聞いただけなのですが、戦前は大阪の阿倍野区に会社を建てていたようです。

―― 戦前の新響時代に佐々木さんはすでにいらしたんですね。

大島 ええ。デブライの映写機を作ってました。

―― デブライはアメリカでしたか。

大島 そう、シカゴ・デブライ。そのイミテーションです。

―― 輸入していたわけではなくて、イミテーションを作っていたのですね。

大島 輸入していたのは奥商会です。それから中村製作所とか、よく覚えていないけれど他にもいろいろなところが輸入していました。でも非常に高額なので、国内で作ろうということになって製造を始め、トーキーに改造したりもしていたらしいです。

02_2.jpg
新響電機が改造した、デブライ製映写機のトーキーモデル。戦前、新響電機はデブライにサウンドヘッドをつけて改造し、トーキー映写機として販売していた。フィルムマガジンには"日本電機光学株式会社"のラベルが貼ってあり、戦時統制時に販売されていたものと推測する。 写真提供:飯田定信氏

―― 新響独自の映写機を作り始めたのはいつからですか?

大島 それは戦後ですね。会社の経営が苦しくなったためです。高利貸しからお金を借りたんですが、その高利貸しが何故か知り合いの設計士を連れてきたんです。その人、岩崎さんという方でしたが、彼が新響の映写機を設計したんです。

―― えっ!岩崎さんはどこから来たんですか。

大島 それはね、わからない。わからないけど、機械の設計ができたから、どこかの映写機メーカーにいたには違いないんだけど。

―― 謎ですね。すごい功績を残した方なのに。

大島 その前に新響の重役をやっていた河野さんという人がいて、H型というメタルケースの映写機を作っていました。

―― 河野さんて、「コーノトーン」(注2)の河野さんですか?

大島 違うらしいんですけどね。「コーノトーン」はアルミのケースですね。しばらくして岩崎さんは新響を辞められるのですが「ワールドフェニックス」という会社を東長崎に立ち上げて、幾つか映写機を作っていました。それも何年かで倒産してしまいましたね。同じ東長崎には「豊島精機」という映写機メーカーがあって、山田製作所の山田さんのお父さんと丹内さんがやっていましたが、ワールドフェニックスと豊島精機は同じ場所にあったようです。

―― ちょっと話が飛びましたが、丹内さんというのはどういう方ですか?

大島 池袋の日勝館という映画館の支配人だったと思いますが、映写機に詳しい方でした。なぜこのふたつの会社が一緒にやっていたか分からないんですが。ワールドフェニックスの方が先に潰れました。

―― 哲学堂にあった山田製作所には一度おじゃましましたが、旋盤やたくさんの機械が所狭しと並んでいましたね。ご本人は車椅子なのに、電動自転車に乗ろうと改造を試みて自転車をバラバラにしたり、大島さんが修理に出したスプライサーもバラバラにされた状態で返されたことがあるとおっしゃってましたね。

大島 はい、豊島精機の頃はその山田さんのお父さんですが、兄弟が何人かいて、家族みんなでやっていました。

―― 話は戻りますが、新響映写機の設計をしていた岩崎さんがいなくなって、そのあとはどうなったんですか?

大島 その後もいろいろありましたが、機械も順調に売れていたのでしだいに高利貸しにお金を借りることはなくなりました。

―― 大島さんは新響電機でどういうお仕事をされていたんですか。

大島 ずっと電気の仕事ですね。アンプを組んだり、設計したり。昭和三十何年だったか、「新響通信工業」(注3)という会社ができました。そのきっかけとなったのは、東通工(現:SONY)の特機課にいたヤスダヨウゾウさんという方が、東洋現像所(現:IMAGICA)に移籍されたんです。移る時に新響の嘱託になられたんですが、新響で磁気の4ch(注4)の製造をやらないかという話を持ってこられました。当然東通工ですから磁気は得意だったわけです。ヤスダさんを連れてきたのは、大阪のローラーカンパニーにいたゴトウサブロウさんという方ですが。
それで20世紀FOXの磁気4chの再生装置を作ろうと新響通信工業を立ち上げたのですが、2台ほど作って1年で潰れましたけどね。

―― ええ!どうして。

大島 思ったほど儲からなかったんです。私は出向社員で新響通信工業に行っていたのですが、当時は技術者だけで8人、他に営業もいましたね。その頃に、当時「電蓄」と呼ばれていた、ラジオもレコードも聞けるトライアンプを作って秋葉原に卸したりして、結構売れたんですけどね。

―― 新響通信工業が潰れた後はどうされたんですか

大島 私は出向社員でしたから新響電機に戻りました。
それから16mmの映写機を新響で作ったんです(注5)。 北辰さんとかエルモさんとか競争相手がいたんですが、キセノンランプの16mm映写機は当時なかったんです。ですから最初にそれを作りました。

―― 新響の16mm映写機って見かけたことがありませんが。

大島 失敗しちゃったから。「あゆみの箱」(注6)で、大恥かいちゃった。教えなかったうちの技術者も悪かったんですけど、映写機にクセがあって、何も聞いていない社員が映写に行っちゃったんです。で、クロウでしょ、三角カム(注7)。それで爪が手前の方で引っ込んだまま、フィルムを送らなくなっちゃったんです。その時は、「あゆみの箱」主催で、出来たばかりの武道館で上映があって、宮様とか大臣とかが大勢来て、3面スクリーンでやったんですけど、1面だけ失敗しちゃったんです。その上映のために1年がかりで世界中を回って映画を作ったのに。フィルムもできたばっかりで、生が柔らかかった(注8)こともあるのですが、それで失敗しちゃったんです。穴があったら入りたいくらいだったって。

―― 2面は映ったんですよね。

大島 でも3面でひとつの映画ですからね。それで恥をかいて自信をなくしてしまって、それ以来16mmはやめてしまったんです。

―― 原因は機械的な不具合だったんですか?

大島 クロウって三角カムが回るでしょう、それでフィルムを送る爪が上下するんですが、それがね、焼きが入ってなくて鈍ってたんです。もともと際どいところでパーフォレーションを引っ掻いていたみたいですね。それが何かの拍子で手前に引っ込んじゃってフィルムまで届かなくなっちゃったらしい。職人に言わせると、そんなのはペンチで引っ張れば出てくると言うんだけれど、そんなのはないよねえ。職人はそう言うけれども、映写しにいった人はそんなこと聞いてないから。対処できなかった。

―― ではそれ以来35mmひとすじなんですね。映画全盛の時代、大島さんはどんな生活を送っていたんですか?

大島 給料安かったから。5時になったらパッと止めて、内職をしていました。最初のうちは白黒テレビを組んで売っていました。あとは白黒テレビの修理とか。カラーになってからは勉強してなかったんだけど。
あと新響通信工業時代のゴトウさんがその後エリコン電気という会社を立ち上げて、仕事をもらっていました。その親会社が三精エンジニアリングで、そこの下請けをして調整卓などを作っていました。三精エンジニアリングは三精輸送機(現:三精テクノロジーズ)という会社の子会社ですが。

―― それは内職でですか?

大島 そう、夜に。そうしているうちに、不二音響さんという会社に「HYFAX(ハイファックス)」(注9)というブランドがあるのですが、その仕事をやらないかという話をもらい、三精さんの仕事は辞めてそれからずっとやらせてもらうようになったんです。当時はちょうどエリコンさんの社長が亡くなって、会社もなくなってしまったので、時期としてはちょうど良かったですね。

―― でもあくまで内職ですよね。調整卓の組み立ての他には?

大島 コードですね。パッチコード、スピーカーコードとか。それからマルチコードといって、8チャンネル、16チャンネル、32チャンネルまでやってました。他にもアッテネータ、エレベーターマイクとか。昔は歌手の人が舞台に立つとマイクがスーッと上がってきましたよね。その装置の電気部品を組んだり。

―― そんなに内職をして会社は大丈夫でしたか?

大島 やばかったです。おおっぴらというか、暗黙の了解だったんですけど、給料安かったから。そしたらクビになっちゃった。

―― 内職がバレたからですか?

大島 長期欠勤して北海道に行っちゃったんです。上野にあった「太陽発声」という映写機を修理している会社から頼まれて、札幌にある洋画作品を配給している会社に、スクリーンの取り付けに行ってくれないかと言われまして。それで気軽に行ったら、1週間無断欠勤しちゃったんです。

―― 無断ですか!ゆるすぎないですか。

大島 それまでは何てことなくまた帰ってきて、平気な顔して普通に仕事していたんですけれど、その時はダメでした。だから籍としては一度退職しているんです。年金をもらう時に書類を見たら、2回くらいクビになってましたね。すぐに戻って仕事していたから、僕にはクビになった記憶はないんですけど。

―― (笑)。ちゃんと手続きされていたんですね。

vol.3に続く)

注1:鈴木定一(さだいち)だが、テイイチと呼ばれた。大島氏の叔父にあたる。大島氏の姉や妹も、新響の技術者と結婚している。
注2:国立駅を設計した建築家・河野傳(つとう)が、渡米して映画の録音技術を学び「コーノトーン映画録音研究所」を設立。映画制作や、映写機を製造していた。
注3:『映画便覧』(映画年鑑別冊)に「新響通信工業」の名称が記載されているのは、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)のみなので、このあたりの年と思われる。
注4:35mmの磁気サウンドトラックの多くは、光学録音トラック位置に磁気録音帯を塗布した2chステレオのタイプだが、シネマスコープ版の磁気サウンドトラックには4chステレオというタイプが存在した。これは左右パーフォレーションの両外側に1本ずつ、両内側に1本ずつの計4本の磁気録音帯が塗布されていたが、この面積をかせぐためにパーフォレーションを小さくしなければならず、通常の規格から外れた専用のフィルムが作られた。これを上映するためには映写機のスプロケットも交換しなければならず、コストの問題から普及しなかった。
注5:1959年(昭和34年)頃と思われる。1959年「映画年鑑」より、新響商事株式会社について"学校向16ミリ映写機の販売が59年度の大きな事業である"
注6:映画や演劇など文化活動を通じた福祉の増進や、社会福祉事業の発展への貢献を目的とする、日本の公益社団法人。http://homepage3.nifty.com/ayuminohako/index.html
注7:クロウ(爪)がパーフォレーションをとらえて下に掻き落とすことでフィルムが送られていくが、16mm映写機の多くは、クロウの原動車に三角カムが使用されている。三角カムが回転しクロウの軸に接触することでクロウの上下運動が行われる。
注8:「生」=通常は感光前のフィルムのことを指す。ここではフィルム(プリント)そのものを指している。現像直後のプリントが実際に柔らかかったかどうかは不明。現在での技術では考えにくい。
注9:その後、不二音響はヤマハに吸収された。不二音響は伝統あるプロ用音響機器メーカーで、中でもHYFAXは名機と言われており、現在でもファンが多い。

このページの上部へ戻る